釈迦堂の西側・北側・東側にある十二面の扉には
二十四孝の彫刻が施されています。
八代目嶋村俊表の作である。(北側右端の扉に刻銘あり)
西側にある陸績の彫刻を見ると陸績が落とした二個のミカンが
足元に二つきれいに並べて置いた様に彫られている。
落としたミカンが二個とも足元にある。
落としたミカンがばらばらでないのがおもしろい。
嶋村俊表は大変几帳面な性格ではないか?即ち血液型はA型なのか?
しかし江戸時代は血液型など、まだ発見されていない。
こんなことも考えながら、素晴らしい彫刻を見ている私です。
成田山の彫刻・絵画・仏像等の制作者一覧
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成田山遷座の地(不動塚)
不動明王遷座の歴史
成田市並木町にある不動塚
不動明王像が最初に遷座したのはこの地だろうか?
不動明王像の遷座については私自身まだまだ
疑問点があるので参考程度にしてください。
成田市並木町の遷座の地が平成29年4月に整備再建されました。
***鳥居は何だろうと、疑問に思う方の為に***
ここには琴平宮様(金毘羅大権現)・二十三夜様・十九夜様(子育観音)が併祀されています。
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仁王門の彫刻は「琴棋書画」である。
竹林の七賢人との説明は、私は間違いだと思います。
日光東照宮の陽明門にも同じ「琴棋書画」の彫刻があります。
***仁王門の項で詳しく説明しています***
竹林の七賢人のリーダーである阮籍は囲碁を打っていた時
母の死の知らせを受けたが、そのまま囲碁を打ち続けたとの伝説がある。
ここから「囲碁打ちは親の死に目いにも会えない」と言われている。
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松本良山が10年の歳月をかけて彫ったと、伝えられているが果たして本当か?
10年が正しければ釈迦堂落慶時には、単純計算で
八面の内四面しか完成していないことになる。
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一切経堂の火頭窓の彫刻は嶋村圓鉄と言われているが本当なのか?
一切経堂は1722年建立された。(1809年再建)
名人と言われた二代目嶋村圓鉄は1720年に亡くなっている。
亡くなった人が彫ったのか?
なお後方四面の火頭窓の彫刻は2010年東京在住の仏師塚原桂昌氏の作である。
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主人公の名前がないか、また刻銘が二か所にある。
嶋村俊表は彫り始めた頃は試行錯誤していたようだ。
最初に彫ったと思われる四枚を良く見れば理解できるでしょう。
四枚を最初に制作したのは、間違いないと思われるが
この四枚の順番についてはまだ研究中であります。
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額堂にある梵鐘は金属類回収令により、なぜ供出されなかったのか?
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**出世稲荷には市川團十郎父子が奉納した石灯籠があります。**
向かって左側は八代目團十郎・右側は七代目海老蔵と
プラスチック板で表示されています。
八代目團十郎と七代目海老蔵は兄弟である。(父子ではない)
この二人は七代目團十郎の長男と三男である。
石灯籠にもこの様に彫られています。
はたして正しいのか?
右側は七代目團十郎(五代目海老蔵)と表示した方が正しい。
詳しく表示するなら下記の表示がいいでしょう。
七代目團十郎(五代目海老蔵)
[七代目海老蔵と彫られていますが、これはかって、七代目團十郎を名のっていた五代目海老蔵です]
添付ファイルの箸蔵寺の写真は、seininさんのサイトより転載いたしました。
石灯篭には八代目團十郎と彫られています。
説明表示板にも同じく
八代目團十郎
これは正しい。
この石灯篭は七代目と八代目團十郎父子が
奉納したものです。
石灯篭には七代目海老蔵と彫られています。
説明表示板にも同じく
七代目海老蔵と表示されています。
これは間違いで正しくは
かって七代目團十郎を名乗った
五代目海老蔵である。
出世稲荷の鳥居左右にある市川團十郎父子奉納の石灯籠
下記は全て大きな間違いではありませんが、日本一のお寺としては恥ずかしいですね。
単純な間違えなので早く訂正した方がいいでしょう。
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仁王門の説明
以前は[どうにょ]と間違ったふり仮名が表示されていました。
私が気付きファックスにて間違いを指摘いたしました。
正しくは「どうじょ」「Do-jyo」です。
上記写真の様に訂正されました
光明堂前の説明板も同じ様に訂正されました。
仁王門の説明板には、この他にも、建立年と竹林の七賢人の記述には疑問があります。
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仁王門再建の年代
仁王門の再建は1830年と説明されています。
成田山HP及び新修成田山史では1831年です。
どちらが正しいのでしょうか?
私は1831年説です。
成田山へは連絡済
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三重塔の説明板
説明板には「各重の尾垂木の先端部は竜の丸彫で飾り」との記述がありますが、
良く見ると一層目と二層目の尾垂木は竜であるが三層目は獏である。
即ち一層目は全て竜で三層目は全て獏であります。
二層目のみ尾垂木が竜でその他は麒麟である。
成田山へは連絡済